秋山英宏=文
text by Hidehiro Akiyama

2010年、当時20歳の錦織圭は、頭をもたげようとする不安と毎日戦っていた。好調時のテニスを取り戻せるのか。もしかしたら、あの感覚は二度と戻ってこないかもしれない――パワーとタイミングが合わさって、ぐいぐいと打球が伸びる好感触、攻撃的なショットで相手を追い詰めていく快感――そうした感覚、成功体験が右ひじの手術によって失われてしまったのではないか、と。
18歳でツアー初優勝を果たしたが、翌2009年春から、右ひじの故障、手術で約11カ月間のツアー離脱を強いられた。苦しいリハビリを乗り越え、けがの再発や将来への不安を抱えながら再び前を向いて歩き出したのが2010年だった。復帰後、初めて出場した四大大会がこの年の全仏オープン。セットカウント0-2からの逆転勝ちで1回戦を突破し、当時世界ランク3位のノバク・ジョコビッチと対戦する機会を得た。
故障から復帰したばかり、相手は3位、となったら、まずは力試し、明日のために経験を積めればよし、と考えてもおかしくない。だが、錦織はそういう選手ではない。コートに立てば、相手がだれでも勝ちたい。経験値などというのは試合後の話だ。だから、ここでも番狂わせをねらい、そして跳ね返された。
翌日のブログに〈かなりショックを受けてしまって〉と書いた。強敵とはいえ、自分自身、納得のいくプレーができなかった。復帰過程での不安が蘇る。〈感覚が怪我前とは程遠〉い。マイナス思考で頭が埋め尽くされた。
もっとも、敗戦にひどく落ち込むのはこの試合に限ったことではない。手痛い敗戦の直後は家族とも言葉をかわさず、食事に出掛ける気力も失ってしまうのが常だ。ホテルの部屋に閉じこもり、敗戦を噛みしめる。口惜しさ、歯がゆさ、悔い、そして焦り、あらゆる負の感情と格闘することになる。
ジョコビッチ戦のあと、自問自答の末にこんな心境に至ったという。
〈テニスがしたい、試合がしたい!〉
〈強い相手に勝ちたい〉
深い井戸の底まで落ち込んで、リセットできたのだろう。試合を振り返る冷静さも出てきた。〈このフレンチオープンという大舞台でまた試合できて1回戦勝って、ジョコビッチと試合できたからこそ、今こうやって思えているんだ〉。
そうして少し気持ちが晴れたのか、彼はブログにこう記す。 〈昨日のいろんな悔しさが1周回ってポジティブに変わった〉
結論の出ない堂々巡りを脱し、心身は生気を取り戻した。敗戦を糧にする、とはよく言ったものだ。彼は人一倍の負けず嫌い。そして、敗戦の重さを全身で引き受ける。痛みは一定の時間が過ぎれば勝利への飢餓感に変わる。その渇望が推進力を生む。落ち込みが深ければ深いほど、飛翔する力を溜めることができる。彼は、そうやって世界4位までのし上がっていくのである。