秋山英宏=文
text by Hidehiro Akiyama

「マイケルは軽く洗脳してくる」
コーチのマイケル・チャンについて、錦織圭は冗談めかして言う。2014年、全米オープンで錦織は四大大会で初の決勝進出を果たす。第5シードのミロシュ・ラオニッチ、第3シードのスタン・ワウリンカ、そして第1シードのノバク・ジョコビッチを続けて破る快進撃。その背中を強く押したのが、チャンコーチの励ましと強烈なプッシュだった。
「自分を信じろという言葉は何度聞いたかわからない」。錦織が苦笑まじりに明かした。それと並んでチャンコーチに刷り込まれたのは、こんな言葉だった。
「相手をリスペクトしすぎるな」
錦織はロジャー・フェデラーなどトップ選手への尊敬をたびたび口にしている。しかしコーチは、この態度は人間的には正しくても、上位に挑む選手としては謙虚すぎると考えたのだろう。準決勝でジョコビッチと対戦する前には「絶対に勝てる、と1日5回くらい言われた」という。コーチとのそんな毎日が、この年の流行語大賞にもノミネートされた「勝てない相手ももういないと思う」の名台詞を生む。
その言葉は、ラオニッチを破った4回戦のあと、「決勝に行くまでは喜べない。今日の勝ちは評価できるが、結果としてはまだまだ」と自らを戒める言葉に続いて発せられた。1勝ずつ積み上げていくんだ、という堅実な見通しを語ったつもりが、後段だけ一人歩きした感もある。しかし、言葉の力は大きかった。大言壮語をしない錦織の“優勝宣言”と受け止められ、メディアに乗って日本中を駆けめぐることになる。
あるいは、コーチの言葉の口写しだったのかもしれない。“洗脳してくるならされてみよう”くらいのつもりで、同じ言葉を口にしたのだろう。ただ、この点において、コーチやスタッフと錦織が思いを一つにしていたことは間違いない。
こうした強烈なプッシュこそ、錦織がコーチに求めたものだったのではないか。アンディ・マリーがイワン・レンドルを、ジョコビッチがボリス・ベッカーを招くなど、この頃から男子テニス界で「レジェンドコーチ」の招聘が流行のようになった。技術、戦術的なアドバイスに加え、選手の背中を強く押すプッシュと、レジェンドによるお墨付きの安心感が選手にプラスアルファの力をもたらしてきた。錦織とチャンコーチのコンビもその効力を示す好例となった。
錦織は決勝でマリン・チリッチに敗れ、グランドスラム初優勝は逃したが、アジア人男子として初の四大大会決勝進出はテニス界に強烈なインパクトを与えた。この2週間は、大きな成功体験として錦織の内面に深く刻み込まれたはずだ。